立ち呑み日記・ポルトマイヨー [おでかけ]

自動ドアを出ると車の洪水の大騒音が押し寄せ、しばしひるみます。

ただ今、この週末になかよしの家へお泊りに行った12歳のムスメを迎えに、ポルトマイヨーというパリの西はずれのランドマークに来たところ。

パリの西郊外に引っ越したなかよしのとこから車で送ってもらうのに、ここが一番来やすいからです。

目の前は車、車、パリ市を内回りと外回りで取り巻く環状高速道の入り口で、市内の渋滞に巻き込まれることなく帰路につくことができます。

ここポルトマイヨーには背高のっぽの近代的ビルがそびえ、ホテルや見本市会場や劇場やシネコンや地下ブティック街が入ったひとつの町みたいになってます。

日本人が団体旅行に精を出していた時代はもっぱらここに荷をほどいていたもので、地下ブティック街など新宿か大阪の梅田にでも来たみたいなありさまでした。

なにしろ、そのころはここに「大丸」が、あった。「大丸」には日本食材店もあり、駐在員の奥様連が大挙して毎日の買い物に来ていたものです。

「大丸」に近い、というので、ポルト・マイヨー界隈といったらパリきってのお屋敷街にして日本人駐在員村でした。

お屋敷は「オスマン様式」といって18世紀末の都市計画で整然と見栄えよく建築された建物。

住み込み女中がいることが前提として建てられていて、玄関ドアとは別に、屋根裏の小部屋と広い台所が裏手の簡素な階段でつながっています。

80年代後半、お父様がさる大会社のパリ支局長で、家族とともにポルトマイヨー界隈に住んでいた友人は、配管工など職人さんが来るたびに、
「なんでまた?」
と、不思議そうに聞かれるのに辟易(へきえき)していたものです。

職人さんは玄関でなく台所のほうから来るわけですが、その台所には日本の台所で使っていたデコラ張りの
テーブルが置いてあり、家族はわざわざ広間のシャンデリアの下の、なんだか落ち着かない大テーブルで食事することなく、ここで三度三度すませていた。

邸宅住まいの一家がなんでまた使用人みたいに台所で、と、職人さんは首をかしげるわけです。

それもこれも20世紀の思い出。

「大丸」は撤退し、駐在員も多くが帰国ないしは欧州の駐在はオランダなどへ移転。パリに残った駐在員は「大丸」のなくなったお屋敷街ポルトマイヨーに用はなく、もう少し庶民的な地区へと移りました。

日本人は以前のような団体旅行をしなくなり、ポルトマイヨーのランドマークタワーで日本人ツーリストの大群を受け入れて来た「コンコルド゛・ラファイエットホテル」は、「ハイアット・リージェンシー」へと変わりました。

目の前のロータリーを、びゅんびゅんと弾丸のように車がとばしていきます。ふとまわりを見回せば、ワタシと同じく人待ち顔で立っている人があんがいます。

すーっと車が近づいてき高と思うとスーツケースを引いた青年が親しげに乗り込み、高速環状線のほうへまたすっとー走り去りました。

長いこと駐停車していると警察ににらまれますからね・・

・・と、そこへまた車がすーっと入って来て、名残惜しそうな顔でムスメが降りて来ました。


PIC_0241.JPG
最近このテの小規模カフェが、パリによくある旧来のカフェとは別に台頭している、気が、します。(ヘタ過ぎる写真でよくわかりませんが、ここカフェなんです)。

前菜は、アボカド、レモンで
主菜は、チキンカレー、ミニマカロニとじゃがいもピューレ、カリフラワーとインゲン塩茹で

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