立ち呑み日記・存在している [追究]

この日曜日パリの大デモに加わって、テロはもう勘弁という気持ちとはもうひとつ別に、しみじみ思ったんですが。

フランス人ってやっぱり立食パーティーのひとたちなんですねえ・・

フランスにおけるデモと立食パーティーは同時期に発展したンじゃないでしょうかネ(と決めつける)。

デモのコースになっている大通りを目指してバスチーユ広場に来たところであまりの人の多さに誇張でなくおしくらまんじゅう状態になったんですが、人々はおしくらしながら大通りを目指しているかというと、必ずしもそうではないんですね。

大方の人が、その場に立っている。

ウォーキング大会でもあるまいしコースを歩き切ることが目的ではなく、その場の空気を分かち合い、自分の心を示威する場ですから、これでいいんです。

が、にっちもさっちもいかないところである人はプラカードを掲げたなりで、またある人は別に何も掲げず、立っているんですぞ。

今回は追悼の「沈黙のデモ」だったので、静かなのは当然ではあるんですが。

「立っているのでは断じてない、デモに参加しているんです」
と、糺(ただ)されそうです。

では、「立っている」ではなく、
存在している
という言葉に改めてみましょうか。

これはやはり、立食パーティーに慣れているからこそではないでしょうか。立食パーティーは、時に料理をつまみ飲み物を飲み、時に知り合いと話し、見知らぬ人とも会話する。

しかし時に、料理もつままず飲み物も飲まず、誰との会話からもふととぎれるひとときがかなッらずおとずれるんですね。この、孤独に陥った時をも楽しめるのが、立食パーティーの達人ではありますまいか。

そしてフランス人は達人であった。

考えてみれば彼らは「たっち」ができるようになるともう立食パーティーに身を連ねるんですね。託児所で年に一、二度、スタッフと保護者をまじえた懇親会があるんですが、これがすでに立食なんです。

「たっち」できるなら一人前に参加し、時にお菓子をつまみジュースを飲み、時におともだちと話し、見知らぬ大人やおともだちのきょうだいともまた会話する。

同時に、お菓子も口に入れずジュースもあおらず、おともだちとも見知らぬ人たちとも言葉を交わさないひとときも、来る。

そういうときどうしているかというと、「存在している」。

立食パーティーはそれから、おともだちのお誕生会、幼稚園や小学校の行事、家庭でももちろん機会あるごとに出席することになります。

こうして単独で「存在する」ことが肌にしっくりくるといいますか、そういう感覚をうんと小さいころから身に着けるようになるわけです。

だからこそああやっておしくらの中で立っていられる(ンじゃないかナァ・・)。

これが日本人なら、デモに行ったのにおしくらの群衆の中で立ち止まったなりでは欲求不満で終わるのではないでしょうか。

隊列になって歩かないことにはデモに参加した「感じ」がでない。

移動の民ユダヤ人もまた、立っているだけではデモに参加した気がしないと思います(ってこれは明らかに決めつけだナ)。


charlie13.JPG
 「(表現ほか)自由な人の絵を描いてください」。〜の絵を描いてください、というのは『星の王子様』のなかのセリフです。先日の大デモにて。カメラが壊れてしまったワタシのかわりにオットの撮った写真です。

前菜は、カボチャのポタージュ
主菜は、シポラータ生ソーセージのグリル、ニンニク風味じゃがいもソテー、いんげん塩茹で、グリーンサラダ


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。