立ち呑み日記・海苔弁 [ランチ]

本棚の、向田邦子のエッセイ集になんとなーく手が伸びパラパラやっていたら、
「海外旅行から帰ったらまず何食べる」
というくだりがありました。

おりしも日本から幼なじみが遊びに来て肩並べて街歩きなどたのしみ、「またねー」と手を振って帰っていったところ。

彼女は、羽田国際空港に到着するや自宅直行ももどかしく空港内の和風レストランののれんをくぐり、鯛茶漬けをサラサラっといったそうです。

いいナ。うらやましいナ。

往年の大作家はというと、半月もの北アフリカ滞在で羊肉に食傷して帰国した折、台所で真っ先に作ったのは「海苔弁」だったそうです。

「塗りのお弁当箱に(ご飯を)ふわりと三分の一ほど平らに詰める。かつお節をしょう油でしめらせたものを、うすく敷き、その上に火取(ひど)って八枚切りにした海苔をのせる。これを三回繰り返し」、蓋をして五分ほど蒸らす。

どうです、久々に海苔弁、食べたくなりませんか。

「海苔弁」と今こう言われるとしかし、白身魚のフライやらちくわ天やらがご飯にかぶさった黒い海苔の上にのっかっている姿のほうがどうしたって目に浮かんじゃいます。

海苔弁は、1980年代初頭、ほか弁の台頭により大変貌を遂げたんですね。

「こんなの断じて海苔弁ではないッ」
と、「ほっかほっか亭」が街角で目につき出したころ、十代のワタシが物珍しげに海苔弁250円ナリを買い携えて家に戻ったら、仕事帰りの父がアキレ声を出したものでした。

「海苔とかつお節の断層がまるっきり無いじゃないかッ」

父は向田邦子と同世代、子ども時分の美味しかったものバナシとなると一にも二にも
「海苔弁!」

「断層は三段ッ、 海苔弁というからには断然三段!」
と、力をこめます。

大作家もまた三段と明言なさっており、昭和初期はこれこそが理想の海苔弁の姿だったのでありましょう。

父があんまり言うものだから当時のワタシまでも三段海苔弁にあこがれたんですが、
「三段は無理ね、二段だってむずかしいんだから」
と、お弁当箱のフタをぎゅーっと押しつけながら、母。

昭和初期とうってかわり、1970~80年代の、ことに女子用お弁当箱は薄かったですからね。

それでも三段層をこの目でしかと見てみたい願望衰えず、あるとき母が不在で姉のワタシが弟のお弁当をつくることとあいなった折、ぎゅうぎゅうのぎゅーッと無理やり詰め込んで、ついに三段達成。

他のおかず入れる余地なし。だいいち本来の海苔弁は海苔とかつお節こそがおかずだったわけですしね。

「おいしかった?」
と、学校から帰って来た弟に尋ねると、返事の代わりに水道に口つけてごくごく飲み続けます。

「しょっぱすぎ」
と、ようやく口を開き、
「それに肉も野菜もなしでひたすら黒く茶色いだけで、むなしい」

ほか弁会社の方々も、飽食の時代に入りわが弟と同様の経験あって新生海苔弁を開発するにいたったのではありますまいか。

クックパッドを見ても、ご飯のみの海苔弁はないみたいです。おかずが何かしら入ってる。

ワタシとて、ご飯だけじゃやっぱりヤだなあ・・

大作家もまた、
「肉のしょうが煮と塩焼き卵をつけるのが好きだ」
とありました。


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文芸評論家の饗庭孝男先生の訃報を知りました。先生は学生時代の恩師です。先生が研究休暇でパリにいらしていた折私も学生で滞在しており、ご自宅にお招きいただき手づからの焼き餃子をご馳走になったこともありました。そのご研究休暇の日々を綴ったエッセイ『フランス四季暦』(東京書籍)に、日々の散歩コースにある雑貨屋として登場するのがこの店です。先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

前菜は、さいの目エマンタールチーズ入りトマトサラダ
主菜は、七面鳥ささ身ムニエル、チーズをからめたスパゲッティ、いんげん塩茹で、ベルギーチコリサラダ


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